ホウ砂に吹かれて

コンサータ72mg男が書きたいことを書きたいときに書くブログ

保守雑誌感想文【2019年1月】

 

平素より大変お世話になっております。

わたくし、はてなブログで「ホウ砂に吹かれて」をやらせていただいております、ノロい人と申します。

今回のエントリは月に一度の保守雑誌感想文になります。

どうか、最後までお付き合いいただけましたら、幸いでございます。

2019年1月号ということですが、いつの間にか2月になってしまいました。。。

 

日本の進むべき道―櫻井よしこ氏と中西輝政氏の対談より

今回の保守雑誌のテーマは“国家百年の計”ということで、日本はどうあるべきかという内容が多かったのですが、保守雑誌だけに保守系の論客の意見が多く、個人的には「う~ん」と思ったりした点もありましたが、その一方で勉強不足の僕にはよい刺激となったところも多々ありました。

この対談記事についてもその通りで、米中対立、中東情勢、NATOの先行き、ドイツとロシア(というかメルケル氏とプーチン氏)の関係性などのお話は普段ニュースや新聞に関心の薄い僕には非常に勉強になりました。

また、中西氏の「財政再建はズルズルとやるモンじゃない」というお話は興味深く読ませてもらいました。先日、イギリスのメイ首相が緊縮財政が終わったことを宣言されていたそうですが(これも僕は知りませんでした)、「イギリスは6~7年で財政再建を成し遂げたのに日本はいつまでかかってんだよ」というのが僕の正直な感想です。
(イギリスと日本では状況が異なるところが多々あるんだから、単純に比較するモンじゃない、というお叱りはあるかと思いますが、日本が抱えている課題をイギリスは実際に解決したという事実がある訳ですから、そこは認めなければいけないと思うんです)

それに対して、櫻井氏は緊縮財政を乗り切るための方策(社会保障や高校無償化について言及されていました)をいくつか提案されており、それに対して、賛成・反対はあるかと思いますが、こういったことをどれだけの人が真剣に考えているのかな、って。政治家ですらちゃんと考えてないんじゃないのかな?

 

日本の教育について―野口芳宏氏と占部賢志氏の対談より

この記事に関しては重箱の隅をつついてみようかと。

占部 いじめ問題がこれだけ多発するのは、どこに原因があるのか。答えは簡単で、いじめる子を叩き直さないから問題が深刻化するんですね。いじめられる子のケアばかり考えても何も解決しない。そのところを指摘すると、皆ハッとするわけです。 

僕のような人間が教育のプロフェッショナルの方に対して意見するのは、おこがましいのは重々承知しておりますが、僕が考える“いじめ”というのは、「いじめられやすい子」は確かにいますが、それだけではなく「仕組み」で起こっている側面もあると考えていて、即ちいじめる・いじめられるの関係性が流動的であることも十分にあり得るわけで、そういったことを考えると、「いじめる子を叩き直す」ことよりも「いじめが起きにくくなる仕組み作り」の方に力を入れた方が効果的なのでは?と思った次第です。

【参考文献】

ヒトは「いじめ」をやめられない (小学館新書)

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野口 (略)私たちの生活は国家によって支えられています。国を失えば生活も人権もないわけですから、国家を愛する心は当然必要です。この根本を忘れて個人の権利や個性ばかりが尊ばれる風潮はやはり異常です。
 最近では指導要領で「多様性」ということを言い出しました。子供たちが皆それぞれに個性ばかり主張し始めたら教育は滅茶苦茶になってしまうのに、これは一体何たることかと。私は教育に長年携わってきて根本的に大事なことは、多様性ではなく、基本の受容だと思うようになりなした。親の言うこと、先生の言うことを真剣に聞いて受け容れる。もし、その教えが間違っていたのなら、「ああ、あれは間違っていたんだ」と直せばいいのです。 

どっから、ツッコミを入れましょうかね?(才能ナシの俳句に添削を入れる夏井いつき先生の気分です)

問題が3つほどあるように感じますが、まずは1つめ。
ノロい人「私たちの生活は私たち自身の自立によって支えられています。私たち自身の自立なくして国家も社会もないわけですから、人権や個性の尊重は当然必要です。この根本を忘れて国家や社会ばかりが優先される風潮はやはり異常です。」

2つめ。
僕自身、発達障害性的少数者という事情を抱えて、生きています。この方はこの方なりの意見はあるのでしょうが、僕はそれでも自分の生きづらさを少しでも軽くするために、「多様性」の尊重を訴えていきたいと考えています。また、子供たちが個性を主張しはじめたら滅茶苦茶になるらしいのですが、教育者の立場たる者であれば、個性は主張するものではなくて、尊重するものという認識は持てませんか?計算が速い子、運動が得意な子、歌が上手な子、絵心がある子、掃除が丁寧な子、心優しい子、などなど、こういった個性はいちいち主張するものではありませんよ?教育者を初めとするオトナが見出して尊重して伸ばすお手伝いをするという発想になりませんか?

3つめ。
子供は幼ければ幼いほど、自分が受ける教育をコントロール出来る範囲が狭い(選べない)分、親や先生の言うことが人間形成や教養の土台になると思うのですが、その教えが間違っていた場合の責任の大きさは計り知れないものだと思うのですが。。。
ある程度の年齢になったときに、親や先生の教えが間違っていたことに気づけて、修正がきくというのは、どこかで「まっとうな教育を受ける機会」が「たまたま」有っただけの話で、その「まっとうな教育を受ける機会」ってどうやってオトナが提供するんでしょう?「たまたま」に頼るわけにもいきませんしね。。。

 

以上、2019年1月号の保守雑誌感想文はここまでにしたいと思います。

最後までお付き合いいただきまして誠にありがとうございました。

ではまた、次回お会いできるのを楽しみにしております!